音の無い世界

「私の短編」

日付が変わろうとするその時、サトミは帰宅した。

今日もいつも通りの帰宅時間だ。仕事は定時で終わっているが、帰りにいろいろな所へ行って時間を潰して帰ってくるのが日課だ。日によってコースは違うがだいたいは決まっている。
ウインドウショッピングを楽しみ、最後にはいつもの繁華街から外れた所にある古ぼけたアンティーク喫茶でクラシックを聴きながら絶えず鞄の中に持っている小説を読む。
時々、ジャズが流れることもあるが私にはどの曲も同じように聞こえるからあまり好きじゃない。しかしBGMには心地がいいような気もする。はっきり言って曖昧でしかない。
私はいつも決まってジャン・コクトーを読んでいる。暇があればページをめくるのが楽しみになっていた。
以前、友人に勧められたサガンを読んだことがあったが、つまらなかった。あの女は何故あんなの進めたのだろうと思った。酷くロマンチックを気取っていたような気がする。興味がないのですぐに読むのをやめた。

いつも私はカプチーノを頼む。
シナモンのほのかな香りとアンティークの雰囲気がいつの間にか私を虜にしていた。
店のマスターとはほとんど話さない。以前一度話した事はあったが、彼とは会話が成り立たなかった。アンティークの一部のように店ととけ込んでいる彼は昔に読んだ絵本の中から飛び出してきてたようだ。霧に包まれたような淡いイメージ。彼と話すと本当に童話の世界に入ってしまうような錯覚を覚えた。あれが本当に錯覚かどうかなんて誰にも証明できないからひどく曖昧だ。
ここにいると何もかも忘れてしまうのような錯覚に包まれる。別に日常に嫌気がさしているわけでも無いので得には気にならない。
普段なら全く気づくことのなさそうな店。目を懲らさないと分からないかもしれない。人通りの少ない道だけによけいに気づく人はいない。初めてこの店に訪れたのはほんの一ヶ月前。今まで気づかなかったのに・・・。
そして、誘われるままに入ったのだった。それ以来、毎日のように通ってる。お気に入りとはまた違う。そう言ったものではなく、当たり前でもない。

電話が鳴った。こんな時間に電話をかけてくるのはマサトぐらいだろう。
「もしもし」電話相手はマサトだった。いつものように電話はかかってくる。
特に対した会話はしない。習慣のように義務的に会話をしているだけ。私はこれほど無意味な時間はないと思っている。
マサトと出会ったのは去年の秋、だったということぐらいしか思いつかない。どうやって知り合ったのか酷く曖昧だ。
出会いにそれほど重要性を求めているわけでもなく彼に対して何を求めているわけでもない。
私がいることを誰かに認めてもらいたいのだろうか?自分の体を傷つけて快楽におぼれるのも寂しさからだろうか?
だけど一度も寂しいと感じたことはない。気のせいかも知れない。
だが、そこには何もなく殺意にも似た感情が潜んでいることを私は知っている。どこまでも追いかけてくる。頭の中を駆けめぐる。
いつか私と交わり変わるまで私を苦しめるはずだ。
時に強く。時に弱く。人の精神状態は不安定が当たり前だ。
だからといって弱いままではどうしようもない。何故だろう・・・酷く感覚が鈍っている。このままではいけない。
分かっている。わかっている・・・言い訳が必要なのだろうか?身の安全ばかりを気にする?安住の地がほしいだけだろうか?体が、頭が安らぎを求めているだけだろうか?

時々、すべてを捨ててしまいたくなる時がある。
時々、目の前にいる人たちを殺してしまいたくなるときがある。
時々、目の前にあるものをすべて破壊したくなるときがある。

そんな衝動に駆られるのは誰にでもあることだ。心の葛藤と言ってしまえばそれだけだが。そんなに甘くない。普通は実行することはない。しかし、実行する者は異常者とみなされる。
ではいったいどんな差があるのだろう?モラル?自制心?恐怖?関係ない。結果のみだ。ある者は恐怖から逃れるために・・・
結局、逃げているのだろうか?何から?自分から?世間から?結局、マサトじゃなくてもいいのかも知れない。
誰だっていいのかも。ほかの男でも女でも。
私の右の乳首のピアッシングだって一つ間違えればただの物質。私は逃げようとしているのだろうか・・・

サトミの部屋は都心から少し離れた郊外にある10階建てのマンションの6階にある。外装も内装も綺麗でまだ築2年だ。その割には以外と安い家賃となっている。
上京したときにはかなりの数の不動産を回ったがここを見つけた時、居場所が見つかった、等ではなく「ここにしなければと駄目だ」と直感的に、それはある種の衝撃を感じたほどだった。
何よりサトミがここを選んだのもベランダから見える景色が郊外という事もあり綺麗だったからだ。東京でもまだこんなに美しい景色があるのだろうか?
とも思ったがそれは違うと思ったのもまた事実。この景色が作り物であるのがそんなことは気にする必要もなかった。
事業で出来た街。
だから何?私には関係ない。
通勤には少し不便だがサトミにとってそれは何の問題もなかった。
そのベランダからずっと外の景色を煙草を吹かしながら見ていると、ふとした瞬間、飛び降りたいという衝動に駆られる時も、多くの星が散らばる夜空を見上げても、私は生きているんだなと実感する自分を笑いたくなる。
何に浸る必要があるのだろうか?サトミはただ、見ているだけなのだ・・・

車のライトがマンションの前で止まった。うっすらと人影が見える。数分後、チャイムの音が鳴った。
サトミは確認するとドアをあけた。そこには一人の男が微笑んで立っていた。

朝だ。ほら、朝日がキレイだよ。サトミ?

私は毎日、その朝日を見てるわ・・・。この男は何故そんな当たり前の事しか言えないのかしら?
満たされない。本当に?満たす?何を?何かを私は期待しているの?この男は何故私といるのだろう。
私は何故一緒にいるのだろう?

マサトは高速を飛ばす。メーターは100をきっている。
もし今、ここで車から飛び降り降りたらどうなるのだろうか・・・具体的にイメージできない。目の前に見えるものも、今いる場所もほんの一瞬でで遠く後ろに遠ざかる。考える暇もなく場所は過去へと変わっていく。
時間の概念に縛られていることを恐怖しているのかな?
俺は・・・
100メートルほど先に2台のトラックのテールランプが見える。一車線と3車線・・アクセルを強く踏み込む。景色は線に変わっていく。
130・・・140・・・
小さく見えたテールランプが少しずつ大きく見えるのがよく分かる。視界はどんどん狭くなっていく。どこまでスピードを上げれば視界が点になるのだろうか。それが見てみたいな。
いったい何キロ出せばいいんだ? 俺は何をすればいいんだ?

あの日以来、彼、マサトを見ていません。そもそもマサトが誰なのか私には曖昧でしかありません。私はいつもと同じようにアンティーク喫茶で本を読んでいます。一つの短編が終わりました。

私は次の短編を求める事にします。 曖昧ってなんですか?