音の無い世界

「音の無い世界」

この夜、 関東一帯に襲った豪雨はまるで一切の業を飲み込んでいくような様であった。

夜空に轟く音と光を楽しんでいる。
凄まじい光は見る者を虜にしてしまう場合がある。光をよく観察してみると様々な色で満ちているようにも見えた。
雷って一色だけで光っているんじゃないんだな、
と酷く感心した男は都内一角に立ち並んだ地上五階のマンションの一室にある、一際大きな硝子窓から雨の降る夜空を楽しんでいた。
しかし光よりも表情を持たない恐怖に満ちた力強い音に惹かれる。
この世に存在する打楽器なんかは非ではないな、と苦笑する。小さな音で流れるピアノとヴァイオリンの音に耳を傾けると、人格と言うモノに依存している自分自身が不愉快になってくる。
男は音を必要とし音は男を必要としない。
曖昧で憂鬱な雨の音を聞き分けるとよく分かる。雨自体に音はない。つまり音は音として存在することが出来ない。
物理的に音は音として存在するわけではなく必ず媒体となるものが存在する。それは風が空気をきる時に起こる摩擦であり、ドラムとスティックの接触により起こる摩擦であり、雨が何かに触れて起こる摩擦なわけである。
物質間に摩擦がない限り音は存在しない。音がないということは無でありそれは恐怖だ。

男は「音」を楽しんでいる。
楽しさついでに光と音の間を数えてみるがそんな意味のないことをしている自分を嘲笑してみる。
そして自分の耳がすでに一番小さな音で流れていた音楽に支配されていたことに気づいた。
ついさっきまでの自分との矛盾が男を一時的に不安させるが、思考はすべて停止し自分が何をしていたかと気づくまでに幾分かの時間を必要とした。
今日あったことを事細かく思い出そうと試みたが、そんなことをして何の意味があるのだ、と再び嘲笑してみる。
よく嘲笑う日だ。
男は鏡を見て自分を確かめる。とくに苦労もしない退屈そうな顔をした男の顔が映っているだけだ。
いつになくクリアな気分だと思ううちに浅い眠りの中に入り込んだ。音楽が遠くに聞こえるというような感覚は全く無視した突然の眠り。
音は眠り込んだ男などお構いなしに複雑何入り交じりながら鳴り続いている。

一時間ほど眠りについていた男は突然目を覚まし、自分が何処にいるのか分からなくなり何か呟いた。
何を言っているのか本人も分かっていないはずだ。
もうすでに停止していたCDプレーヤーからCDを取り出し、違うCDに入れ替えた。ローリング・ストーンズが低いヴォリュームで流れ始める。
ドアをノックする音が聞こえた。その音は男を破壊する。
男の脳裏に「破壊、破壊」と0と1の二進数のように、繰り返し、繰り返し、嫌な気分が吐き気のように恐ろしいスピードで頭の中を駆けめぐった。苦しい。胸が絞めつけられるようで、気持ち悪い。全てを断ち切られたような、自分の元を絶たれたような気がした。
男はただ空中に、焦点も定まらないまま目を開けたままだった。頭はすでに麻痺している。眠気など何も感じなくなる程に。それは丁度、全力疾走しているときの状態、ランナーズ・ハイに何故か似ていた。
部屋の風景もいつもの何かと違うように、とてつもなく広く感じられる。感覚が鈍っている。
狂気と殺意はいつも奥底でまだかまだかと人を嘲笑うかのように待っている。
男はコカインとかヘロインなどの麻薬の常用者のような血走って濁った赤い目を鏡で見た。
目をこすって目のかゆみから逃れようとするがかえって目は赤く充血する。目のかゆみは人を苛立たせる。しかしそれは現実として受け止めさせる作用もある。
男は目薬を差し、しばらくの間何も考えずに目を閉じた。再びノックの音がするまで男は何も考えずにいたが、狂気と殺意が薄れていくのが分かると静かに心を落ち着かせドアロックを解いた。

その女は少し濡れた雨を拭い、バレッタでとめた長い髪をとき、ルイ・ヴィトンのバッグを無造作にベッドにほおり投げ、 テレビとビデオとCDプレーヤーとベッドと小さなテーブルと本棚しかないフローリングの部屋を舐めるように見渡し、あなたの部屋っていつも退屈ね、と言わないばかりの目で微笑んだ。
男もそれを認めるように笑い、軽い口づけを交わした。その軽い口づけだけで男は完全に平常心を取り戻したが、そんな単純な自分を認めるように女を見つめた。
そしてCDをとめようとするが女は、そのままでいい、と制し、上着を脱ぎベッドの上に転がったままのバッグからヴァージニアスリムを取り出し火をつけた。
メンソールの煙を吐き出した女は男の全身を目だけで一通り見渡すと、嘲笑うでもなくエロティックでもない奇妙な微笑みを見せ、つけたばかりのヴァージニアスリムを灰皿に消した。

「ねえ・・・」
サトミは甘えるような誘惑でもかけるかのような態度を取りながら俺の横にすり寄ってきた。
俺はまだかゆみの取れない目を擦りながらサトミの髪をそっと撫でてやった。
今日のサトミはよく笑うな、ま、俺もそうだがな・・・。
「コークある?無ければこの際ハッパでもいいわ」
両方あるけど俺はいい。
俺は本棚に無造作に置いてあった小さなビニール袋に入ったコカインをサトミにやった。
気分程度にやめておけ。
俺がそう言うとサトミは舌で唇を濡らし、艶がかったその唇を、ワカッテルワヨと動かして見せた。
コカインの袋から白くて綺麗な粉を出し小さな机の上でサトミはクレジットカードでさらに細かく砕き始めた。その白い粉を丁寧に一本の筋にすると、財布からとりだした千円札を巻いて筒にした。
俺は思わずおかしくて笑いをこらえた。おいおい千円札はないだろう?
サトミは目を瞑ったまま微笑み、ゆっくりとコカインを華から吸った。目を瞑ったままサトミは、ああ・・・と声を漏らしている。少し体がくねり始めている。
徐々にコカインが効き始めている。人が薬をやっているところを見るのは虫唾が走る。
ああ、気分が悪くなる。
サトミの口から少し濁った白い涎が出てきた。俺は今日はそれ以上やるなと制しコカインを取り上げた。
コカインを取り上げた時に見せたサトミの表情は、今までに見た表情のどれにも似ても似つかなく、俺が今までに見てきたどの人の表情にも属していなかった。
全て悟ったとか、これ以上失う物がないとか、最高の快楽であるとかそう言ったモノでもなく、それらを合わせた表情でもないまったく表情がのないというような表情をしていた。決してコカインのせいではない。俺は麻薬のせいで変わった人の様々な表情を見てきたから良く分かる。
明らかに異質で奇妙だ。まぁ、バッドトリップには違いないかも知れないがな。
俺はそんな顔をしたサトミを時間を忘れて眺めた。
大した時間ではない。小説を1ページ読むくらいの時間だ。
何もない表情なのに酷くエロティズムを感じさせる。俺は迂闊にも勃起しそうな感覚に見回れ、体が小刻みにプルプルと震えそうになった。それはオルガスムスを連想させ虚脱感をも連想させた。恥を感じ股間を押さえそれに耐えた。
人格。
ふと、頭に横切った。サトミに人格が感じられない。人を形成させる為の格。それが見えてこないのだ。だから、その顔はマネキンのようにも見える。あの微笑みが美しいサトミは一時的にしても何処へ行ったのだろう。
俺はサトミの肩に手をやろうとした。
「夢を見たのよ・・・」
サトミはにこりと笑って言った。

ユメヲミタノヨ・・・
女はそう言った。
メランコリックな表情で男を見つめる。あの微笑みは何だったのだろう。恥を感じ始めている男は顔が赤く染まっていく。見つめられているとさらに大きな恥が包み込む。
そんな男から目を放した女はヴァージニアスリムをくわえ、火をつけ煙を深々と吸い込んだ。
 「私がシステムに属しているのよ」
女は煙を吐き出し独り言のように言った。
男はモノのような存在で部屋の一部、風景に溶け込んで行った。俺はモノだ。そして女は唯一のモノではなかった。
 「誰でもシステムに属しているし、システムに頼りきって安心しているわよね。セックスだって儀式みたいなものだし、ほら、私たちがこうして逢っているのもシステムと何ら変わりないわ。そういう具体性のあるシステムじゃなくて、無いのよ・・・その具体性が・・・」

女はヴァージニアスリムを灰皿に置いた。男は女が何を言おうとしているのか全く分からずにモノとして聞いていた。
「システム」と声に出さずに呟いてみるが、モノとして今ここにいる俺にとってのシステムとは何の意味も持ってないし、 すでにシステムとの関係を遮断しようとしているのは全くの人格を無視している事と何の変わりもない、と男は思う。
そして不意に「人格」と言う言葉が再び脳裏に現れた。人格とはなんだ、今のサトミには人格を感じることは出来るが俺自身に感じることが出来ない、全てが反転しているのか?逆流しているのか?ならばこう考えてるこれは人格じゃないのか?そう命令されているのか?
今の俺に出来る事と言えば脱力感に耐えモノとして聞くことだけだ。

男は少しの動作もすることなく女の反応を待っている。
 「具体性のないシステムの中に私はほおり込まれ途方に暮れているの、分かる?フフ、具体性が無いんだから分かるはず無いわよね。すべてが私を無視しようとし、まるで・・・そう、まるで靄の中で、最早死語となった幻想のようなモノ?に取り込まれそうになるのよ・・・そこには私に無かったモノ、コンプレックスがあって、私は私を認めようとしないのよ。コンプレックスなんて無いに超したことないわよね?というよりも私はコンプレックスなんて知らなかったし無いものだと思っていたわけなの。勘違いしないでね、別に自分に自信があるって言うような意味じゃないから。だから、そう思ってたわけ。言葉だけがってね?そのコンプレックスが私の人格を・・・そう、人格よね。それが私の根底で蠢いて形成していたのよ。私はコンプレックスの中で生きていたのよ。でも、それが一体なんなのか分からなかったし恐怖だった。真っ黒で大きな染みの一部になって世界の終わりを感じるような恐怖だったわ。今まで感じた恐怖のどれでもなかったから曖昧なんだけれどね。吐き気に似た感覚もあったわね、セックスの途中で相手があまりにもヘタで腹が立っていつまで経ってもイクことが出来ないような腹立だしさもあったような気がするわ。愕然ともしたわね。
でも結局私の中にあった具体性のないシステムに縛られたコンプレックスの原因は分からなかった。」

女はすでにフィルターまで燃えたヴァージニアスリムを消し、新たにもう一本取り出して火をつけ吸い出した。
男はモノを考える。何故自分がモノであるのか、その必要性は、恥とは。
この女は何をべらべらと話しているんだ。今、俺はモノだ。
「分からないままじゃ駄目なのよ。私が誰かなんていいの。ただ理解したいのよ。」
情報を得なければならない。モノでは駄目だ。依存の根底を見つけだし、破壊だ。
 「外側でダンスステップを踏んでいるのよ。乾いた空気と澱んだ空気の中で優しく踊っているの。でもね、でもね・・・だから、その・・・楽しんでいるわけじゃなくて、相手もいないし、鏡、そんな感じなの。そして誰でもない私に、私が私を売り渡したのよ。」
女はそこまで言うと嘔吐に苦しみだした。あまりいい物じゃなかったからな、男にとっては自分がモノであると言う事実の方が苦痛だ。
恐怖?何を言う。今、俺を支えているのは目のかゆみだけだ。
「気分が悪いわ・・・」
女の顔色が青ざめてきている。しかし再び口は開いた。何かが男の中で弾けようとするとする。柘榴のように・・・。
 「利己的じゃないわ。私は怖いのよ。売り渡したことを後悔してるの。売り渡したくなかったのに・・・・・でも、私は鏡を見るようにダンスステップを踏んで具体化を計ろうとしているのよ。」

依存するな、依存するんじゃない。
依存するな、依存するんじゃない。
依存するな、依存するんじゃない。

「そうやって、鏡を見るように・・・砂漠を彷徨うように・・・自分と向き合って分かったことが一つだけあるのよ。」
そう言って女は男を見つめた。
その柔らかく滑らかで暖かな視線は青ざめた表情と共に男を恐怖する。この女、救いを求めている。男はその時初めて何故自分がモノであったかを理解した。
危険だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたのことよ・・・」
そう言うと女は男にキスをした。二人の舌はお互いの粘膜をすべて取り除くかのように激しく絡み合った。しばらくの間二人は長く口づけを交わしていたがそれを止めたのは男の方だった。

いつしか雨の音は消え、もうすでに音楽は止まっていた。静寂が時を止めるような感覚が襲う。
「あなたが必要なの・・・」
穏やかな表情を作った男は女の胸や陰部に手をやる。女は少し悶えながら甘い吐息を吐いている。柔らかなモノはいつもすばらしい・・・男は女を脱がし体中をゆっくりとゆっくりと堪能していった。

ローリング・ストーンズのバラードが静かに流れ、窓からは薄日が射そうとしている。窓から微妙な風が入って、全てを浄化させていく。部屋はもう微かな青が闇を殺し始めている。ベッドの中で寝息を立て女は静かに眠っている。
男は手にナイフを持って「サトミ」の寝顔を静かに微笑みながら見ている。

柔らかい・・・見ろよ?こんなに柔らかでなめらかなんだぜ・・・
ナイフは女の胸に突き刺さる。鮮血はシーツを紅く染め、床をキャンバスの変わりのように変えていく。命の色をしたその色液体は命を消す瞬間こそが美しい。
男は目を擦る。目のかゆみは取れた。いい朝だ。

「おはよう・・・見ろよサトミ、音のない世界だ」